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自己紹介

Profile

密教阿闍梨 満月斎

肩書き:運命鑑定師

所属:神田算命館

2004年から始めた日本全国の運命鑑定巡りも、皆様のおかげで20年を迎えました!


北海道から石垣島まで、全国750ヶ所で30,000人以上の方々を運命鑑定させていただきました。


私の鑑定方法は全て独学で、研究のスタートは小学生の頃に遡ります。生命線が非常に短いと指摘されたことから、生きることに対する疑問が芽生えました。「人はなぜ生まれるのか?自分はなぜここにいるのか?何のために生きているのか?」という問いが心の底から湧き上がる子供でした。


その結果、私が見つけた人が生まれてきた目的は「自らの使命を知り、誰とどこで何をしてこの人生を全うするか」ということだったのです。

私が自分探しを始めた瞬間

発端(ことのはじまり)


私は幼稚園の頃、ずいぶん泣き虫でした。よくいじめられていたのですが、反論できずに、反抗もできずに悔しさのあまり泣くことでその場を逃げようとしていました。


そのころから、なんで生き物は生まれてくるんだろうと漠然と思うようになり、クワガタやバッタや蝶やザリガニを捕まえてはその生態を観察するのが好きでした。家に連れ帰っては親に怒られていました。


もともと探究心は旺盛で、手相観察のまねごとを始めたのは小学生のころ。私の祖父は55歳で亡くなっており、私の生命線もとても短かったので、寿命について望みを持てないと思い込んでいた子供時代を過ごしていました。運命について興味を持ち始めた発端です。


実家は戦前までは事業をいくつも経営していたとても裕福な家でしたが、戦後無一文になり、私の父親は定職に就かず飲み更けていてそんな家に帰るのも嫌で、中学生くらいまでは人目から目立たないように生きていた子供でした。


転機は高校入学で、生家は東京の立川でしたが、都立高校に入ろうと思い、できる限り家から遠い、学区内では一番時間がかかる武蔵野市にある高校を選びました。


試験当日に熱が出て、コリャだめかなと思ったのですが運よく合格し、それからはあまりいたくない実家におらずとも活動できる吉祥寺や渋谷などで楽しい時間を過ごしていたのです。


そんな中、高校2年生にもなると進学の話も出てきて、ただ、うちは大学に行かせるお金はないよ!と言われていたので、進学校にもかかわらず就職の道を選びました。同期240名のうち男子は2名だけ。


私は航空自衛隊に入り、ブルーインパルスの整備チームに配属になったのです。

徒手空拳の試行錯誤

挫折から確信へ

私は航空自衛隊で5年間の任期を終え、1989年の除隊後就職はせずに退職金を元手に起業しました。23歳のことです。


ところが、隊の組織の延長線で社会生活を考えていたため、その経験が全く通用しないことを悟ったのはすぐあとのこと。

元自衛官は潰しがきかないと言われる意味での社会適合のための試行錯誤が始まりました。


まず、それまでの経験が一般社会では全く通用しない。私の専門は航空機のジェットタービンエンジンの整備だったのですが、その技術を生かせる会社など一般には一握り。独立起業して何か縁があるような業界ではありません。退職金もすぐに底を尽き、資金は空になりました。心底困ってしまったときに助けてくれたのが、得意のパソコンから作りたいものを代わりに入力して版下を作る仕事。


その時に痛感したのが、自分の得意を極めて人の役に立てばなんとかなるものだ!という確信です。


それからが未知の世界で生きる始まりです。

泥縄式にわらしべ長者よろしくご縁を継いで、一つの組織をなしたのが、超大手外資系コンピュータ会社のエージェントとしての仕事でした。

それは1994年、六本木に日本本社のある世界的IT企業の部内ベンチャーの立上げの参加でした。


私はプログラマー兼SE兼営業として活動することになりました。その対象が当時2兆円産業の宝飾業界でした。そこにPCを導入するプロジェクトです。全国への営業訪問や海外への視察にも行くことができました。


今に続く大切なご縁の始まりです。取扱品目は多岐にわたり、小売店サポートのための、PC開発からカスタマイズ、運用担当者への教育レクチャー、終いには取扱商品のお試し販売で画商までさせていただきました。


それから10年、また転機が来たのが2004年。


それまでは自分だけで勉強していた運命鑑定のお披露目を店頭で小売店の顧客にすることになったのです。

すなわち運命鑑定師のデビューでした。

こんな私でも変わる事を知った

転機

2004年正月、取引していた小売店の社長に「この店の15周年記念になにか出し物はない?」と聞かれ、思いついたのが長年研究してきた運命鑑定でした。軽い気持ちで引き受けたのですが、やるからには持っているスキルをお披露目しよう!と思い、手相に始まり、東洋西洋やれる限りの占術道具を携えてお店に乗り込みました。

結果は上々でお客さんの反応も良く、また次回もお願いされて、気をよくした私は、違う取引先にも声をかけてみたのですが、そちらでも喜んでいただいたので、本業の合間にお店の売上貢献のお手伝いのつもりで本格的にやり始めたのでした。


2004年からの鑑定会訪問地一覧


それから20年、あっという間に過ぎた感がありますね^^

生まれ変わった人生

得度から灌頂を受け、入壇し阿闍梨位へ


2021年10月に旧知の友人と再会した際、驚くべきことに彼が真言宗で得度したことを告げられました。

私が真言宗の開祖である弘法大師空海に深く共感し、その教えに影響を受けていることをご存知の彼は、特にこの知らせを私に伝えたかったのでしょう。私たちはとても親しい友人であり、一緒に中国西安の青龍寺を訪れた経験もあるため、彼の話に心を躍らせて聞き入りました。その場の興奮の中で、私もぜひお寺に伺わせていただきたいと伝えました。

日を改めてお寺にお伺いすると、そこには迫力ある僧侶が私を迎えてくれ、心を打つお護摩を焚いていただきました。

その神聖な空間の中で、僧侶とのお話を通じて、真言宗の教えや実践についてさらに深く理解を深めることができました。そして、その瞬間に私の心の中で何かが変わり、弟子入りする決意が固まりました。得度することは、まさに新たな人生の幕開けであり、私の心の奥深くで生まれ変わることを約束する瞬間でした。

得度するにあたり師匠に「真照」という法名をいただくことで、私自身が本当に仏弟子として新たな道を歩み始めることとなりました。

この転機は、ただの宗教的な儀式ではなく、私の人生全体にとって大きな意味を持つものでした。


実を言うと、私の手相にある生命線は55歳までしか走っておらず、これはまさに祖父が亡くなった年齢と一致します。子供の頃には、そんな運命的な出来事が起こるとは夢にも思っていませんでしたが、今振り返ると、まさにその歳に生まれ変わるために得度をする運命だったのかもしれません。


この新しい道に進むことは、私にとって神聖な使命であり、これからの人生をより深く、意義あるものにしていくことを誓いうものでもありました。

私のミッション

未来展望


千年の昔、京の都では天皇を頂点とした朝廷が政治の中心であり、その時代なりの日本文化が花開いていました。

朝廷のもとでは、文学や芸術、宗教が融合し、独自の文化が形成されました。その中で特に注目されたのが、為政者たちの相談に乗っていた陰陽師や宿曜師と呼ばれる特殊能力を持った人々です。

陰陽師は、天文学や易学に精通し、自然の法則を読み解くことで国家の運営に寄与したれっきとした公務員であり、彼らの知識は政務において欠かせないものでした。


一方、宿曜師は密教寺院に所属する僧侶たちであり、霊的な知識と共に運命を読み解く力を持っていました。
彼らが駆使した技術は、占星術による運命鑑定や、特定の願望を実現するための祈祷など、多岐にわたります。

占星術は、天体の動きと人間の運命を結び付け、人生の節目や選択における指針を提供しました。

また、祈祷は心の平安や成功をもたらすための重要な手段とされ、信者たちは彼らの力を借りて願いを実現しようとしました。


このように、古代の陰陽師や宿曜師は、ただの占い師ではなく、社会全体に影響を与える存在だったのです。

私は、現代においてその技術を再現し、目標達成を望む皆さんの未来に向かっての展望とミッションを実現することを使命としています。

現代の宿曜師として、私の役割は、クライアントとの対話を通じて「自分の生きる目的」を導き出し、人生の選択をサポートすることです。占星術や祈祷の知識を活用し、個々の状況に応じたアドバイスを提供することで、皆さんが新たな道を切り開く手助けをすることを目指しています。


未来への展望を共に描き、自分自身の可能性を最大限に引き出すためのサポートを提供することが、私の使命であり喜びです。

私のライフスタイル

子供のころからなんでも体験したい派の私は、生きるモットーとして「やりたい時にやりたいことができる生活をしたい!」という強い思いを抱いています。


この意識は、幼少期から少しずつ醸成されてきたように感じます。私は男三兄弟の長男ですが、弟たちは双子であり、私が小学2年生の時に生まれたため、幼少期はほとんど一人っ子のような状況でした。


親はとても心配性で、何か挑戦しようとすると「ダメダメ」という言葉が口癖のように出てきました。そうした環境の中で、次第に親には言わずに自分のやりたいことを実行する子供になっていったのです。


例えば、昆虫集めに夢中になって田んぼを駆け回ったり、竹竿を持って川に釣りに行ったりしました。家にいると親がうるさく感じることが多かったので、自然と外に出て自由に遊ぶことが増えていったのでした。

この自由を求める性分は、大人になっても変わることはありませんでした。


25歳で初めて海外に渡航し、その経験をきっかけに、以降は毎年、時には10回以上の海外渡航をするようになりました。


26歳の時には、八ヶ岳に土地を借金して購入することができ(なんと銀行が貸してくれたのです!)、その土地にセルフビルドでログハウスを建て始めることになりました。このプロジェクトは、今でも私のライフワークとして続いており、自然に囲まれた環境での生活は、私にとってかけがえのない時間となっています。

また、バイクにも大きな魅力を感じており、18歳の時に乗り始め、最終的にはハーレーに辿り着きました。そのバイクで石垣島から知床までの壮大な旅を一気に駆け抜けた経験は、今でも忘れられない思い出です。現在では、そのバイクは寺への出仕の足としても活用されています^^。


これからどんなライフワークが私を待ち受けているのか、どのような新しい冒険が待っているのか、今からとても楽しみでなりません^^。


生きることは常に新しい発見の連続であり、その一瞬一瞬を大切にしていきたいと思っています。

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